昭和52年03月18日 月次祭



 今日、夕方のテレビニュースで報道しておりました。皆さんもご覧になっただろうと思いますけれど、大阪かどっかに子供さんを、十二年間も納屋の様な所に監禁しておった父親をまぁ犯人何々と言った様な発表と言うですかね、報道があっておりましたですね。本当にあの、見るも悲しい事、聞くも悲しい事であります。中の部屋を映しておりましたが、もう本当にこう家とは名ばかりの所に、一杯のごみがあった。
 それでもジュースとか、牛乳の空き瓶とか缶詰とか、そういう食べ物だけは運んでおったと、こう言うのですねぇ。皆さんご覧になったでしょうか。何回もまぁ報道があったと言う事でしたけれども。でそれは実際の子供である。いよいよ今日から、お彼岸の入りでございます。仏教ではなかなか、永年の歴史を持った宗教ですから、実に行き届いたことですね。
 例えばお彼岸ならお彼岸と言うのは、お先祖を尊重の習慣という事になるのじゃないでしょうかね。年の内例えば一週間でも、ご先祖を大事にするという事でございます。春秋の霊祭が近付いてまいりますと、どこの家でも御霊様関係のことが、色々と話題に上り、又は御霊様が直接、遺族のものに働きかけなさると言った様な働きが、非常に多い。そういうお届けがございます。二三日前も日田の伊藤さんですね。
 今日娘さんが井出さんと申します。お母さんがこの頃からちょっとこの、たどんのガスで中毒してから、ほんとにまぁ危機一髪の所で、おかげを頂いており、助かってはおられますけれども、まぁ他で余病が出たりして休んでおられる。今日お参りしたいけれどもと言うておられるだけれども、ちょっとお参りが出来なかったと、先ほどお届けがあったんだけれども、二三日前でしたでしょうか。母がお夢にその横に、骸骨が三体並んで、やはり、一緒に休んでおるところを頂いた。
 御霊様のお祭りが近付いてくると、そう言う様な働きがあるですね。骸骨という事は、もう死んだまま、そのまま放任してあったと言った様な御霊が、関係の中にあるわけでしょう、やっぱりね。先祖と言や仏教的に言うと、先祖代々の中には、様々な死に方をした人があったり。そして今はもう、人が顧り向きもしないと言った様なのがあるだろう。そういうのが、幾らもございます。
 今日の私はテレビで、親が子供を十何年間も監禁して、外に出さずにそして、食べ物だけを与えておった。お部屋は掃除もしてやらずに、もう汚いもの一杯の中に過ごしておったという話を聞きながらね。まぁ目に見えるからそのようですけれども、目に見えない世界との、私共の係わり合いと言うのは、やはりご先祖であります。お宅のお先祖様は、監禁状態になってはおられないでしょうか。ジュースだん牛乳だん、時々出しておられるだろうか。御部屋のお掃除ぐらいして上げよりなさるじゃろうか。
 いいや私のほうじゃ、毎日花も水も、こう変えちから、ご佛飯お供えして、御神飯お供えしてこうしとる、と言うだけでは、いけんのがいわば、通じないのが神様と私共であったり、私共と魂ですね、お互いの心と心でもそうでしょうが、通じ合うという事は、いわゆる真心が無ければ通じないのです。御霊様の例えば仏壇で、仏教で習うておられるところは、ご仏壇のお掃除が真心込めて、日々出来ておるか。お花の一つも取り替えられておるであろうか。やはりお茶やら、お水やらもお供えがしてあるだろうか。
 私は案外ですね。今日のその子供を監禁しておるというか、一部屋で父親がもう、母親がおられないのですから、もう十何年間男手一つで、まぁ大変であろうと思いましすよねやっぱ。もう十八歳にもなられるんだそうですから。それがそのずっと身体が悪いから、まぁ、朝晩の食事だけは、手の要らんようなもの、缶詰とかジュースとか、牛乳といった様なものは、差し入れてある訳です。
 お互いの御霊様との間の中に、そういう事すらも、出来ていないとすると。例えば父親であっても、それを犯人として、警察は取り扱いますようにね。私共もまたほんなら、お先祖を大事にしないと言う様な事が。やはり犯人としての扱いを受けて、様々な難儀な元、苦しみの元になっておる様な事がありはしないだろうか、一つ思うて見なければいけないところですね。
 信心とはそういう、一切が出来て行くことが信心です。対人間関係の場合でありましても。対言うならば、ご先祖との係わり合いにおいても、もちろん天地の親神様との間に於いても、その交流する事のために、私共は御祈念もする、お話も頂く改まりもする、磨きもする。朝に夕にいわば祈りに明けて、祈りに暮れると言った様な、その生活そのものも、信心でなされていかなければならない。
 月に例えばこのように四回の月次祭がある。おかげを頂いて、お日参りとは出来ないけれども、せめて、お月次祭ぐらいは、神恩報謝の心を、このように現して心行くまで、神様に御礼を申し上げ、しかも真心から、御礼を申し上げよう。それが交流するんだ。神様との交流です。神様と交流するそういうルートを辿って、人間の幸福の条件の全てが足ろうて来るというのが信心です。
 今朝からの御理解の中に、皆さん聞いて頂いたんですけれども、私は昨日高橋さんと、朝の食事を、二人でさせて頂く。昨日は二人でした。本当に世の中には世の中にはと言うが、信心ほど高橋さん、有難いものはなかばいち。もう本当に信心ほど、有難いものはないよち。こういう有難いものをですね。私が感じておるだけでも、このように有難い、この神様をです。世の中の人間一人ひとりに、これをあの頂かせたい、分からせたいと願っておられるのが、神様ですけれども。
 世の中には、そういう本当に、信心ちゃこげん有難いものだと言うことを、分からずにおる人が、信心があっても同じこと。信心がないなら尚更のこと、この世は苦の世、苦の世界にしてしもうておる人が、どのくらいござるやら分からない。どんなに口を酸ゆうして、こういう生き方になれば、人間が幸せになれる、魂が助かるあの世までも持って行けれるんだよと教えても、それを実行しないという事は、悲しいことですねと言うて、高橋さんと話しましたら、高橋さんが言われる事に。
 本当に言う事を聞かぬ子は、親でも仕方があるまいがと。どうぞ信心しておかげを受けてくれよと仰る、あのお言葉はもう神様が、血を吐きなさる様な、苦しい悲しいお言葉でしょうねと言うて、言われた事です。確かにそうですね。この様にも有難いこの様にも人間の幸せの条件を頂いて、それを謳歌しながら、天地の親神様を称えながら、生活して行けれる道があるのに、その道におりながらも、その道を踏まずしてどうしておかげ頂かんじゃろうかという人があるという事は、もう私は不思議で不思議でたまらんと言うて、昨日高橋さんと話しました。
 毎日お参りもしよる、お話も頂きよるのにも拘らず、親の言う事を聞かぬ子は、親でも仕方があるまいがと、神様にもう親でも仕方があるまいがと、さじを投げんばかりに、悲しんでおられるお言葉であろう。神様が血を吐く思いの、あれはお言葉ですよねと言うて、高橋さんが言われるようなもの。お互い一人一人がね、本当に神様の言う事を、親の言う事を聞くという事は、しかとても難しい事でも、苦しい事でもないのです。
 本気でその神様の言うて下さる事を頂こう。そしてそれを、生活の上にも現して行こうと、その気になれば、誰でも出来ることを、なかなか出来ぬ。そこに信心は難しかという事になるのじゃないでしょうか。本当に信心ちゃこげん有難い、こんな有難いことがあるだろうかと。それはどう言う様な中にあっても、その有難いが言えたり、思えたりするという事です。雨の日もありましょう、風の日もあろうけれども、その雨がまた有難い、その風も、また有難いと御礼のいえれる世界。
 そういう世界に出らせて頂くために、教えを頂くのだ。昨日私がお取次ぎをさせて頂いた。子供さんが何人も居りますが、もう本当にまぁ言うなら、親が子供の事をしてやるのは当然のことですけれども。今日も今日の話を頂いてから、それをほんに言われた方があったんですけども、今日のお話はどうやった。今日はあのお話は、私方んことじゃなかじゃろうかと思うごとございました。
 もう一人ひとりの子供達の上に、もうそれこそ今時の金で言うならば、家一軒綺麗な家が建ち上がるほどしに、お金も突っ込んだり、お金も出してやったりもしましたけれども、みんな浮かばれません。本当に幸せになれません。そしてほんなら親の思いとは反対の事になって参ります。いうならば何時も子供に裏切られておるとこう言う事です。もうこんな悲しいことがあるだろうか。子供に尽くし抜いて、そしてその尽くしたことが、一つも報われない。
 報われないどころか、反対にそれを言われるという様な事になると、いよいよもう親というものは、こんなに悲しいものだろうかという事になる。それでほんなら常日頃、信心をしっかりしておる人ならば、そりゃあんたが子供にばっかり打ち込んで、神様に打ち込まんけんたいち、もうそういう風に冷淡に、ぽんと言えれるんですけれども。まぁ常日頃、教えを頂いておらんから、そうも言われんけん。ほんに親ちゃ悲しいもんのうやち、言うてまぁ同調するより他にない。
 そしてねもう子供に打ち込むとも、いい加減にしてこれから、いっちょ本気で神様に打ち込んでご覧と言うより他にない。打ち込んで見なさいという事は、どういう事かというと、神様の言うことを聞くという事なんですよ。教えを頂いてその教えを一つ、本気でね。実行者になるという事なんです。難しいことじゃないのです。その気になればなれるのです。そして本当に信心とは、こんなにも幸せなもの、こんなにも有難いものと言えれ、思えれるように、お互いならせて頂いた時に、神様の喜びがここにあるという事になるのじゃないでしょうか。
 あのことが一つ成就しました。今日はもう随分、高校の県立の発表だったそうですから、御礼に出てくる人、まぁ落ちましたけれども、おかげというふうな、色々なことを言われてね。試験に通れば通ったが良いですけれども。通ったことが人間の本当に幸せに、これから繋がっていかなければいけない。今日は御礼に出てくる人達に、それを言うんですよ。出来た。出来たがおかげじゃなかばいち。これからね。
 その学校に入らせて頂いたことが、私の生涯にこれだけ有難い、幸福につながっていくという事にならなければ、おかげがおかげにならない。あん時にはほんに、出来んほうが良かったという様な事になっちゃ出来んじゃないか。○○学校に行くごとなったら、○○学校に行きよる途中に事故に合うたなんていうならね。その学校に行かんほうが良か、出来んほうが良かったと、神様から頂いたものに対して、不平不足を言わなければならない様な事では、おかげじゃない。
 だから結局私は、おかげに打ち込まずに、本気で信心に打ち込まなければいけないと。言うならば、親の言うことに。今日先ほどの、栄四郎君がお話しておりましたようにね。十六日が総会でございました。ほとんどの方一人ひとり、十年祭にかけられる教会の願い、その願いを受けて立たせて頂こうと言う、一人ひとりの意見発表と言うでしょうか、祈願を表明しておられます。もう本当に、新会堂でございましたが、本当に感動一杯で、皆さんの、一言ずつの祈願表明を聞かせて頂きました。
 あぁいう祈願が出来れる。決して嘘ではない。それが、十年祭を目指して育って行かなければならない。本当のことにならなきゃならない。はぁもう今日はもう、俺は有難かった。今日は、こげな祈願表明を教会でさせて頂いたと、帰って家内に話したら、「ふん」と言うただけじゃったらどうするですか。あぁたが続くもんのと言うごたる風な態度をとるならどうでしょうか。はぁ有難かったですね。ほんなら私も一緒にあぁたと一緒にという事にならなければ、それが育たんのです。
 だから総会と言うものはやっぱりね。そのやはり親子夫婦揃うて出席しなければいけない。私はちょっと驚きましたけれど。合楽には百二十軒しかない事になっとる、信者が。この頃、月次祭ともなりゃ、二千名からのお届けがあるんですよここは。そういう沢山なご信者がおるのにもかかわらず、信者が百軒と言うことは、どう言う事でしょうか。自分は、合楽の信者であるとか、金光様の信者であるという、いわば自覚がまだ出来てないからだと思うんです。
 それでは本当のおかげは受けられませんですよね皆さん。どうでも皆さん、合楽教会の信徒会の会員である。家内は婦人会に出る、主人は壮年会に、息子は青年会にと、もう一家を挙げて、合楽の信者でありますという事が、まず表明されなければいけない。それは、神様の前に表明するのと同じことです。そら月々いくらかの会費が要りましょう。合楽では、誰も無理強いて言う者がありません。御本部参拝でもそうです。御本部参拝、百七十名かの、今度は、お参りをすることになっておるです。
 まぁだ百名ぐらいしか申し込みがあってない。もう本当にもう、御本部参拝ち言うたらもう、家族中でお参りすると決めときゃ、絶対参られるです。一家中五人居るなら五人の者が、もう春秋の御大祭には、必ず参拝がその腹を決める、神様が受けて下さる印に出来る。そこにしみじみ心確信と言うものは生まれてくるのです。神様に喜んで頂く様な事を、先ずね私は、合楽の信者でございます、信奉者でございますと言う言うならば、意思表示が、ほんならここの信徒会名簿に。
 ちゃんとこう私の家族が、ずらっと並んで出ておらなければね、気がすまんと言うくらいな信心にならなければ、本当のこっじゃないと思うのですよ皆さん。とても金光様のご信心を頂いて、春秋の御本部参拝をするてんなんてん、こらもう当然のことなんです。それを、私の方では夫婦で、親子でさせて頂くんだと決めてご覧なさい。もう大体はどんなに少なくても、やっぱり三百、五百ぐらいは、お参りがなからなければいけないような状態にあるのだけれども、もう参らんで良かなら参らんが良か。
 もう会員でん入らんなら、会費収めんで良かけんで、もうせからしかけんでと言うくらいな事で、神様だけにどうぞどうぞち言うたっちゃ、神様もせからしかち思いなさるかも知れん。はっはは、ね。こら私はね一つの、まぁ言うなら合楽教会信者としての、一つの信心のまぁ教養がないですよね、合楽の人達は。あんまりそういう事は教導しませんから。また信者としてはこうあらなければならんと言った様な事も言いませんからね。けども、これは銘々がその様に育っていかなければ、私は嘘だと思う。
 今日は今度学院に参ります、ここから六名参ります。教務所管内で二十名の人達が、今度学院に先生になるための勉強に参ります。合楽から二十名の中に六名ある。合楽はおかげいただいとるね。はぁ合楽は何時もおかげ頂きなさるですねと言う風に、返ってくるかと思うたところが、もう皆が合楽の批判非難ばかりを聞いて来とります。そしてあんたどんが、どげなこつ言うたのち言うたら、批判されんならんごたるこつを言うとるです。一人ひとり聞いて見ると。
 そう言うことを教導せんもんですからね私が。こげん言われたなら、こげな風に言わにゃんばい。こげな風にいうたらこげな風に、もう先生方の喜びなさるごたるこつは、ちゃんと分かっとるとじゃけれども、それは人間心で言うて聞かせて言わせたんじゃ、ほんなもんじゃないと思います。それはまぁ赤裸々に言うとるもんですから。もうとにかく合楽の修行生は、何時の修行生でも、もう学院では言うことを聞かん。
 朝早うから起きって、その教主様のお出迎えなんかに行ってから、学科の時にはもう眠ってしもうとる。もう合楽の信心も信奉者は、みんなそげな風だという風に、まぁそういうふうなのが、帰ってきてるわけです。普通で言うならですね。九州管内からあぁた、二十名しか行かん。しかも教会子弟が殆んどでしょう、教会の息子さんか何か。それにほんなら合楽の場合は、みんな信者ばかりです。
 のしかも青年の方達ばかりがですね。それこそ一心一命を投げ打って、全身全霊を投げ打って、人の助かる事の為にと言うような、その大変なだから褒められても良いようなものである。合楽は感心な事じゃあるといわれても良いのだけれども反対に返ってくる。可笑しなことである、中で秋山君がどげん言うたかと言うたら。僕は人が助かることの為に学院に今度行きます。人が助かるち言うこつはどげなこつかと言うて、いう風にまぁ質問されてしどろもどろで帰ってきておる。
 (あっははは、ね。)ただ順子さんだけが良かったらしい。はぁ良かったのち私が。あんたが、それば先言うとるなら、どうか言われとるばってん、身体がきつかでしょうち、あぁたがそんな風だから。けれどもね、それは神愛ですよち。はい私も神愛そう思うとります。もうそれでぴしゃり出来たわけですね。ところが私はこんな身体で学院に行きますけれども。これもやっぱり、神愛と思うておりますと、こう言うたらば神愛ちゃどげなこつかと、こう言われるに違いは無いですよね。
 そらもう順子さん、あんただけが、そら良かったなと言うて、まぁ人間ちゃどうかあったり、こう哀れな風をしておると同情が湧くけれども、でなったら褒められにゃんこつでん、褒めようごつ無いごたるとが、人間の心の中にあるごたる風ですよね。不思議なこっじゃある。本当に信心とはどうでも、自分でやはり自分の心が拝めれるような、有難うなって行くという事が、信心なのですからね。一つ本気で。
 今日はあのそのテレビでニュースを聞かせて頂いておる、すぐその後が子供ニュースがあっておりましたがね。子供ニュースでは自然界においてはと言う、難しい話を子供達にしておりました。自然界においては一切を、全てをまん丸くしよう、まん丸くしようとする働きだけしかないという話をしておりました。例えば大きな岩のような石でも、それを段々段々転がしていってまん丸うしていく。大きな岩の中に丸い穴が出来る。
 そこの中に小さい岩が石が入ると、その岩が中で入って岩の中に、まん丸いまん丸い穴が開く。もうとにかく自然界は一切を、この地球をこんなにまん丸くしてある様に、もう一切をまん丸くしよう、まん丸うしようという働きがある。そげな難しい事が分かっておるとにも係らず、自分自身の心が丸うなって行く事の稽古を、本気でしようと言うものが無い。教祖生神金光大神はおかげは和賀心にありと、和らぎ喜ぶ心にあるんだと教えておられる。その和らぎ喜ぶ心を目指して、私共がねそれこそ人間心を使わずにね。
 例えば子供に尽くすとか、人に尽くすとか言うて、かえって裏切られる様な事して、がっかりする様な事ではなくて、先ずは神様へ尽くしていくという生き方を、先ずは身に付けていかなければなりませんけれども。まぁまぁ自分がこうが良かなら、こうが良いと思うことを、やっぱしてみることも良かろう。そしてもう本当にここにがっかりと言うようなことに直面したならば、本気で回れ右をして、神様へ本気で向う。
 しかも神様はね。私が昨日高橋さんと話したように、もうこんな有難い信心ちゃこげん有難いものだ。こんなに有難いという事を、みんなに一遍分かって貰いたい、頂いて貰いたい。けれどもさぁ言うことを聞かぬ子は、親でも仕方があるまいがと、親を悲しませる様な事のない。その親神様の言うて下さる、教えてくださる事を、本気で守っていこう。人間心は一遍棚に上げといて、神心一筋に一つ本気で、自分自身が助かる事の為に、一つ精進させて頂こう。
 そして自分のそのいよいよ助かりがね。家族中の助かりともなる、周辺に光臨の輪が広がっていくという事が、それが自分の目に見えない御霊の世界、先祖にまでもそれが広がっていくほどの働きを現して行きたい。いよいよ二十三日の御霊様のお祭りは、合楽にご神縁を頂いておる限りの人に関わりのある御霊様達が、集まって、その御霊様の、あの御大祭を受けることになる。二十三日と言う月次祭ですけれども、月次祭にあわせて、一時から、御霊様のお祭りをさせて頂きます。
 先日その井出さんが、その骸骨の横に寝ておる三人のお知らせを頂かれる。それで私が頂いたことを、聞いてもらったんですけれどね。あの御霊様の拝み方が足らないよと。御霊様に対するところの奉仕が足らないよと。ここで例えば二回の食事の時に、必ず拍子木を叩いて、部屋中みんなが回ろうがて修行生が。そすとはぁもう夕食だ、朝ご飯だと言うて、みんな食堂に集まってくるように、御霊様に一生懸命御祈念をするとか、真心を込めて奉仕をするという事は丁度、拍子木を鳴らせて歩くようなものだ。
 だからあの御霊もこの御霊も、自分の心に浮かぶ限りの御霊。分からんところは、うからやからのいわゆる、先祖代々の御霊様としてです。この拍子木の音を聞かせなければ。そすと、今からはぁ御飯ばいなと思うて、御霊様が出てきてから、御霊様がままになりなさるというほどしに、御霊様を大事にするという事は、あの拍子木が鳴らなかったら、いつまっでも、ひもじい思いをしなければならないんだ。そういう難しい問題、いやそういう見やすい問題と言うて、井出さんに話しました。
 だから皆さんこの拍子木を鳴らす様なものです。ですから勿論神様の御祈念をしたり、御霊様を拝みよりなさろうばってん。自分の心の中に浮かぶ限りの御霊様達の心を、心の中に頂いてそして自分の今日の信心の喜びを、御霊様にも分かっていく。最近の御祈念に佐田さんの所では必ず奥さんが、おかげの泉を読まれる事になっておる。もうその読まれるとを、御霊様が喜びよりなさる証拠に、もうとにかくオイサミがバチバチある。
 そしてもう有り難うして、有り難うしてもう途中で止めにゃおられんごと感動すると言われるですね。あのおかげの泉と言うものは、そういうあの言うならば、仏教で言うならば、経文にも当たるようなものですから、自分が頂いてきた、朝の御理解の有難いものを、御霊様にも聞いて頂く、そこに御霊様がままになりなさる。拍子木を鳴らすと同じ事の様な働きをするのです。二十三日はそういう意味で、ご先祖の御霊様との出会いにおいてです。真心込めての一つ私を芯にして、皆さんが一丸になって一つ、そういうお祭りを奉仕させて頂きたいと思います。
   どうぞよろしく御願い致します。